裁判員制度フォーラム

夫に誘われて「裁判員制度フォーラム」へ行ってきた。
この集まりは最初の一時間近くを使って裁判がどのように行われているか、ドラマ仕立てのビデオが上映され、その後、パネル−ディスカッション。なんつうか、裁判員制度や問題について考えようとか、そうゆう趣旨じゃなくて、安心してもらいながら新制度を知らしめよう、ってな構成だったと思う。

でも、あたしが気にかかるのは、つまり、罰を与える、ってなに?ってことであり、ここ*1を読んでみる。そうすんと、肩すかし感のあったこの集まりの構成も何かしらの問題意識がほの見えるような気がしてくる。推理するに(だってしょうがないよ)、日本の刑法は古典学派の影響が強いんじゃないかな、と。でも少年法はもろ、近代学派に則っている、と。でっもって、あの裁判をドラマ化したビデオから、二つの問題点が見えてくる。ような気がする。
ドラマは、放火犯が1件の未遂放火については認めたものの、のこり3件だか2件の放火(人も死んでいる)については「やっていない」と主張しているんだけど、まあ、裁判とはこうして行われますよ、みたいに結末はつけずに終わる。

とすると、ここで暗に問題になっているのは「危険性を前提とした保安処分は刑罰とは性質を同一とし、相互に代替手段とすることが可能である(一元論)。」という理論ではないか?
つまり、無罪推定(疑わしきは罰せず)、にともなうだろう「不安」に社会は、市民であるあなたがたは耐えられますか?ということじゃないか?

それに付随してもう一つ、


# 人間の自由意志を否定して、犯罪を行為者の素質(性格)と(環境)から生じる必然的な現象とする(意思決定論)。
# 犯罪行為は犯罪者の反社会的性格の微表とする(犯罪微表説)。
# 罰せられるのは、行為そのものではなく行為者自身である(行為者主義)。
# 犯罪の観念は行為者の反社会的性格・動機などの主観的側面より理解する(主観主義)。
ここらあたりのことがすでに昨今の不可解な少年事件で破綻しかけているのではないか、と思え、しかし、市民の裁判参加はこうした「主観主義」「行為者主義」「犯罪微表説」などが力をもち、混迷していく危険があるのではないか?

自分でも何考えてんだかわからんくなったけど、あたしは死刑は反対だけど、古典学派って筋が通ってると思っているんだなあ。

※間違いは教えてくださいませ。φ(・_・。 )