よく生きる/天皇制(3)

よく生きる (ちくま新書)
ビデオニュース*1で『なぜ女性・女系天皇天皇制の根幹に関わる問題なのか』 というのをやっていた。
百地章氏はつまり「聖性としての天皇」という伝統が女系天皇になると憲法上、問題が生じるといってるんかな?でもって宮台氏は、国としての統一を「聖性としての天皇」が担う、とゆうふうな考え方なん?神保氏は「一般ピープル基本的人権の上に乗っかり、守られ、対して、「聖性」としての皇族が果たさねばならない責務とのアンバランスに疑問を投げかけていた。(よくわかるよ。)しかし、百地氏、宮台氏によれば、それは皇族の「教育問題」の範囲であるということらしかった。

けど、たとえば『よく生きる』の岩田靖夫氏は「(アリストテレスいわく)、政治は、本来は特殊な専門知識を持っていない普通の人が、いわば日常のコモンセンスの判断で参加して運営すべきことだ」と書く。
彼の国家論の公理を抜粋してみる。


現代の国家論において共通の公理とは、自由で平等な市民という概念です。人間は、すでに自由で平等な市民なのではなくて、そういう者にならなければならないのです。自由とは分かりやすく言えば「したいことをする力」ですが、哲学的に言えば「自己実現の力」のことです。人は、その内容がどんなものであれ、自分自身の善の観念をもち、それに基づいて自分の人生を形成しなければなりません。
しかし、この自由は他者の自由と共存しなければなりません。そこから、基本的人権自己実現の条件として要請されてくるのです。信仰の自由、思想の自由、言論の自由、集会の自由、結社の自由、移動の自由、居住の自由、国籍変更の自由などは、他者と共存しながら生きる人間の、その幸福である自己実現のための条件として、すなわち、「各人がかけがえのない存在」であるという意味での「人間の尊厳」の条件として、要請されているのです。
これは正義の絶対的な第一原理で、なにがあっても守り抜かねばなりません。経済的状況への配慮も、この原理を上回ることはできないのです。たとえば、国民を食べさせてゆくためには、人権の抑圧も仕方がないというような考えは許されないということです(なぜなら、人間の印は「自由である」という点にあるからです)。
平等とは、能力、容姿、財産、社会的地位などにおいて成立するものではありません。人間たちが異なった存在である以上、こういうことに差異があるのは、事実であるばかりではなく必然でもあるのです。それゆえ平等とは、共同体の構成員が共同体の市民であるための条件としての公共的理性を、最小限備えているということとして理解しなければなりません。つまり、正義の共同体を構成するためには、市民はみな公共的理性を備えていなければなりませんが、それを共有しているということが、すべての市民が平等であるということの意味なのです。
公共的理性の内容は、自己実現のための知的倫理的能力をもつこと、換言すれば、自分自身の信奉する善を自覚し、それに基づいて自分の人生を形成しうる知性と倫理的責任能力をもつこと、同時に、自分がその中で生きるべき正義の共同体の社会構造を理解し、その共同体を実現するために力を尽くす知的責任能力をもつことです。

岩田氏がいっていることは常識的な感覚からも理解できることだとおもう。それは「自由と平等」という枠組みがすでに一般的であるからなのではないだろうか。
しかし、この「自由と平等」という共通公理は、「可能であり可能でない」ものなのだとおもう。
イスラムのスカーフのように、人権(自由)の名の下に為される信仰の自己絶対化は自由(共存)をおびやかしかねない(かもしれない)し、これを御旗にしてテロができてしまう。

皇族は「共同体の社会構造を理解し、その共同体を実現するための責務を果たされている」のだろう。<ともさん>の文章をみてもずいぶんと頭の切れる人だなあとおもうし、彼ら皇族は並々ならぬ努力を強いられているのかもしれない。けれど、彼らの公共的理性は一般人と共有されるものではなく、特殊なものだ。こうした憲法の枠からはみ出していくような−日本の文化伝統が世界的に共有される可能性は万に一つもない−特殊性は政治的に利用されたり、悪用されたりといった危険性はあるだろう。せめて英国王室なみに、「俗人の偉い人」くらいの規定は必要だとあたしならおもう。
そうなったほうが「メシアニズムなきメシア性」である(かもしれない)伝統文化を残すことができるのではないかおもう。