『ピエール・リヴィエールの犯罪』/京都女児殺害


荻野容疑者のニュース記事*1を読んでいると、むかし読んだ『ピエール・リヴィエールの犯罪』*2という本を思い出す。

ピエール・リヴィエールは18??年代に母親、姉、弟に斧かなんかで襲いかかり惨殺した。当時の判事は、彼が犯行に至ったいきさつを書かせた。それが全文載っている本だった。つまり、(実は余りよく憶えていないので、間違えているかも)、判事たちは、ピエール・リヴィエールの正気を疑い、人格の異常性をなんと立証しようとしたらしい。ところが、そのために書かせた彼の犯行の説明文のようなものは、徹頭徹尾、まともで理性的な人格であることを立証してしまった。
事件当時のフランスでは、平民も土地や財産の所有が認められ、人々の間でそうした財産を所有、保持するというような意識が一般的なことになり始めた時期だったらしい。だから、この本を読み終わった後の印象では、ピエール・リヴィエールという社会に適応し理性的でもある青年が父親と母親の財産を巡るいざこざに悩み葛藤したあげく−もちろん、その葛藤というのは第三者的にみると「どーでもいっしょおおお!」というようなケチクサイものである−父をのぞく家族を皆殺しにしたのだ。

(京都女児殺害のニュース記事を読んだあたしの根拠のない邪推のたぐいを下敷きに想像を巡らせれば)、荻野容疑者もしごくまともな青年であり、(ピエール・リヴィエールのように)、社会的な何らかの通念、常識といったものに強迫的な拘りがあっったのかもしれないと思えてくる。それ故の激しい葛藤が子どもを殺すことにまで至った・・というようなイメージ。

むかし、浅田彰が「パラノからスキゾへ」といっていたが、最近は宮台真司が「オブセッショナルな意識」を叩いている(ようだ)。

子育てをやっていると、子どもに対して常識、親の信念といってもいいかもしれないけど、それを子どもの前に示す必要はあるのだ。あったまくるほど黴臭いけど「親の壁を乗り越える」という仕組み以外に、うまく子どもを育てる(子どもに秩序を教える?)方法があるのだろうか?「ものわかりがよい親」という民主的なやり方では上手くいかないのだ・・。

しかし、オブセッショナルな意識構造を生むのはなんなのだろう?

*1:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051215-00000019-san-soci記事の一部を転載<京都府宇治市の学習塾で小学六年、堀本紗也乃さん(12)が刺殺された事件で、元アルバイト講師の同志社大四年、萩野裕容疑者(23)が、調べに「(指導を)こんなに一生懸命やっているのに、なぜ通じないのかと思った」と供述していることが十四日、分かった。府警は、指導がうまくいかず、独り善がりの恨みを募らせた萩野容疑者が、殺害で悩みが解消されると短絡的に考え、犯行を計画したとみている。>

*2:ピエール・リヴィエールの犯罪―狂気と理性 (現代思想選)