『ピエール・リヴィエールの犯罪』/京都女児殺害(2)

「オブセッショナルな意識構造を生むのはなんなのだろう?」ってことを考えてみた。
規律型社会でひとは家庭、学校、会社と環境が変わるごとにゼロからやり直し、「すべての環境に共通する言語が存在したとしても、それは類比にもとづく言語なのである」と物の本にある。
自分の会社勤め時代を思い出してみると「鋳型にはめ込まれる」という感覚がぴったりする。今でも学校の先生はそうゆうもんなんじゃなかろうか?それはつまり塾講師に比べてのはなしだけど。学校では生徒が先生を嫌っても教師を変えてるなんて対応をしないだろう。学校には教師の権威(権力)を守る管理体制があるっていえへん?だけど、塾講師は、たぶん、数字やデータで管理され、つまり、親の苦情の多少、子どもの成績にたいする成果のグラフとかそうゆう数字による管理体制の下にいる、としたら、塾講師にとって子どもとのトラブルは、死活問題になるかもしれない。そのぶん教師は「学校」という型にはまらざるを得ないところがあり、塾講師に比べれば自由がないといえるかもしれないけど、指導上の悩みやトラブルからはずっと守られている・・。

フーコーは今の時代は「規律型」から「管理型」への過渡期だといっていた。だからつまり、「学校」を「規律型」と考えれば、「子ども×教師」×校長(管理者)のあいだで織りなされる効率的支配、戦略的権力ゲームは組織自体のテクノロジーとして確立しており、「塾」は「子ども×塾講師」という側面では、「規律型」が必要とされながら、「塾講師×組織」としては数値やデータによる利益優先の「管理型」という二つが混合している場なのではないのか、と?

しかし、荻野容疑者は数十件の盗みを繰り返していたらしい。その理由は「自分も財布を盗まれたから」だと・・。なんか、あたしなんぞは唖然とするけど、心性がハムラビ法典の時代だよね・・。(「管理型社会」はひとの心性を「絶対的な権力者」に思い上がらせていく・・?)