『ピエール・リヴィエールの犯罪』/京都女児殺害(3)

この事件で、「幼い未熟な倫理観や価値観による欲動のコントロール」というような心的構造をイメージするとき、*1あたしは、フーコーの「これからは主体化の時代だ」ということばを思い出す。
それはつまり、支配的(絶対的)な「枠組み」が消えていくなかで、「主体化」されていくということはどおゆうことなのか、ってことじゃないかい?管理型社会で生きてゆくとき、そのいたたまれなさが吐き気とともに襲いかかるのではないかい?

フーコーギリシャ時代の人々が「自分自身が自分の権力者になる」というような「生の様態」を描いた(とおもう)。志しなかばでついえたけど・・。

そこで描かれた「生の技術」の美的な倫理的なかなたを「本質主義的」とか「ロマン主義的な内的必然」とか名指しするだけじゃパースペクティヴィズムに陥るだけのような気がするし、そこらへんばっか気にとらわれるとなんももたらさないよな・・。
ドゥルーズは「フーコーギリシャ時代に回帰したんじゃない」と書いてた。そして、彼の壮大になるはずだった「主体化の系譜?」は永遠に失われてしまった。

*1:「自分が自分の権力者になる」という「生の様式」の落とし子、というイメージ。