『民主主義という錯覚』(薬師院仁志)(2)

印象的な部分をメモ;
日本の憲法アメリカの憲法とは違うタイプであるということは聞いたことがあっても、実際の所はワケワカッテネーあたしにとってこの本は宝物状態。

まず、憲法とはなんだろう?著者は人権についてこう説明する。


だが、16世紀の半ばになると、人権に対する捉え方に、少しずつ変化が見られ始める。ヴィトリアらを中心とするサラマンカ学派(スペイン)のスコラ学者たちが、アメリカの先住民たちにも人間としての権利があると論じたのである。その際、特に肯定されたのは所有権であった。この認識は極めて画期的であったと同時に、新興ブルジョワジーにとって非常に都合の良い性格を備えていた。非キリスト教徒にも所有権を認めることは、世俗の人間が商売で儲けたカネを私的に所有することを正当化する論理に流用可能だったからである。
かくして、以後の人権思想は、所有権を中心に発展することになった。
お、おもしろい!「所有権」っておもしろい!
つまり、良くも悪くも憲法(人間社会)を作る理性の根幹にはこの「所有権」という概念の扱いがある、ってことになるとおもう。
なんつうか、「所有権」という概念が諸刃の「権利」概念を創り出した、というか。
ルソーの思想は「共和国」「法治国家」という政治体制の根本的な精神として受け継がれている。

自然状態における自然法は、一種の自然法則であり、特定の人物が勝手に改廃することはできない。社会契約に基づく法も同じであって、「誰であろうと一人の人間が自らの権限で命じたことは法では全くない」のである。だから、法の名に値する決まりは、国民主権をまず前提にしなければ存在し得ない。法が全国民の一般意志の表明であるならば、国民自身が法の制定や改廃における主権者でなければならないので、国民主権でない法治国家を想定することは不可能なのである。
逆に言えば、「一般意志の現実態」としての実定法によって治められる国は、自然法が支配する自然状態を、社会状態の中に再現したことになる。だから、ルソーは、「法によって治められる全ての国を共和国」と呼ぶ。ルソーにとって、共和国こそ、自然状態の中で人間と自然環境との間に成立していた関係を、社会状態の中に改めて成立させるものなのである。
そう、日本は「法治国家」なのである。そしてアメリカは、「rule of law 法の支配」の国なのである。

なお、アングロサクソン流の自由主義は、国民主権よりも、個人の自由権や所有権を重視する。その考え方に準拠するならば、ルソーの理論は、一般意志や全体の利益なるものによって、個人の権利を侵害する主張だとみなされる。全体の利益という名目で、個人の自由が制限されているというわけである。端的に言えば、アングロサクソン自由主義の伝統において、法とは、個人が持っている自由を守るための規定に他ならない。他者からの支配や拘束をできる限り排除することが、その主眼なのである。
「rule of law 法の支配」の国、アメリカは、所有権を「個人の幸福を追求する権利」として掲げる。
法治国家」の元祖、ルソーは、所有権から派生する?権利(人権)を平等に配分することに心を砕いたのである。