『民主主義という錯覚』(薬師院仁志)(3)

メモの続き;
法治国家の本源である社会契約と普通選挙

議会制度は貴族政である、とルソーは言う。


人民が自分に代わって統治する指導者(シェフ)たちを持っているならば、その指導者にどんな名が冠せられようとも、そこにあるのは貴族政であることに何ら変わりはない。
賢明な政治家を選ぶとき、いまのところ選挙以外の良い方法は発明されていない。
著者は、「ミルは、理想的に最良の統治形態は代議制統治である、としたうえで、民主政治の第一原理を、数に比例した代表だと定義している。」「少なくとも今日的な間接民主主義の下では、<数に比例した代表>による政治こそ、最も正当な意思決定の手続きであるように思われる。」と述べる。
そして、著者は理論を徹底する。

一つ、<数に比例した代表>という考え方は、多数派の権力独占、(アメリカ型)数の論理の抑制にあるということ。を言っているとおもう。それは、(賢者が為政者の)貴族政と、多数派が力を持つアメリカ型民主主義との対立ともわたしにはみえる。
一つ、議会(正しく選ばれた代表)が全権力を持つことこそが、古典的な民主主義の原理に合致し、権力の分立という考え方は、「民主主義の一部制限に他ならない」という。当然、市民団体や民間企業の発言力が選挙で選ばれた代表者より強くなってしまうことも、代議制民主主義が反古にされてしまうことだという。

確かに、アメリカ型の「数の論理」は、日本でも専門家の権威失墜とリンクしているようにおもう。専門家の権威や権限が納税者の権利要求によって成り立たなくなっている。最近は先生も子どもに査定されるらしい。つまるところ、アメリカの進化論を教えさせない、というアレだ。衆愚的、権利振りかざし状況。ま、あたしも衆愚の一人だけど。

けれど、だとしても、著者の社会契約論徹底は、代表者に対しての信頼や敬意がなければ、わたしにはたいへん恐怖である。
もとい、社会契約的な理想に立ち返るためには、「みんなのもの」という意味の共和制であるということ、と、「一般意志の現実態としての法」であるから、法は「個別の利益ではなく、公共の利益のみに準拠すべき」である、ということを一人一人が肝に銘じなければならない。
この社会主義的なものを抱え込んだ「社会契約的な精神」は、とても険しい精神のように、わたしにはみえる。変だけど、右翼の本義だっけ、なんか隣接するような・・。