『民主主義という錯覚』の中の「公」/感想じゃなくて連想(5)

あたしは物語をつくる。
例えば、ソクラテスはどうして毒をあおったんだろ?ソクラテスにとっての社会とか法ってなんだったんだろう?
例えば、クリント・イーストウッドの詩的な映画「硫黄島からの手紙*1で、天皇万歳と言って死んでいった兵士には、個人的な生活があり家族があり、恋があった。彼らは公の為に私的なものを犠牲にして死んでいったようにみえる。
例えば、NHKのドキュメンタリー「生き抜く 小野田寛郎」で描かれた小野田さんの精神は、公という制度の中だけ、で生きることを決意した、独立人のようで、まるでルソーの公人?野人?のようではないか?とあたしはおもっている。

こうした映画や番組にあたしが強烈な印象を受けるのは、ここに「公」とでもいうべき何か、考えなくちゃいけないものがひそんでいるようにおもえるからだ。
結論をいってまえば、あたしは、「公」の精神性とは突き詰めれば「公の為に死ねる」ということではないか、とおもっている。
しかし、大戦中の公の精神はナショナリズムとしてたいへんな罪悪を他国にもたらした。そしてここから思考停止が始まる。
あたしにとっての公とは、ボランティア精神であり、NPOなどの活動になってしまう。公とは、サッカーの熱狂的な応援をみた精神科医が悪しきナショナリズムの勃興を憂うものなのであり、公の精神には悪の手垢がついている。

しかし、ヨーロッパ型の社会主義的な国、福祉型社会には、この「公」の精神が根幹にある。つまり、ルソー的な公の精神が。
もちろん、公の代わりとしての政府に懐疑の目を向けながら、仁政を望み、我が儘や無知かもしれないものが「権利」という名目を獲得し、アメリカ型衆愚政治が何かをこわしつつある、という現状であっても、それはそれでイイのかもしれないのだけど。

*1:硫黄島」とか「小野田さん」について過去に書いているのでリンクを貼ろうとして日記内を検索したら、ゾロッとでてきて、それらの6つの記事を一番下から順に読んでいって、絶句。あたしってなんにもわかっていない馬鹿なんだなあ。ということは、これからもずっと馬鹿が続くんだぁ・・。「小野田さん」の検索結果 - knori