物語と物語と/「光市母子殺人事件」

あたしは「裁判って、物語と物語の対決なんだ!」と思うのである。

「光市母子殺人事件」について安田弁護士側の言い分を見たり読んだりするにつけ、つくづく、弁護側の物語と検事側の物語の対決なんじゃないか、とおもえてくる。だって、殺意があったかどうかを、法医鑑定に基づいて、双方とも事件の再構成をしているようなんだけど、事件の性質上、真実は藪の中、ってことじゃないですか。
こういう制度が死刑を持っているというのは恐ろしいなあ。

これから裁判員制度が始まるけど、もし、この裁判に陪審員がいたなら、弁護士側は負けるとおもうよ。だって、「口を押さえようとして手がすべって首にはいった」とか「レイプ目的じゃなくて甘えたかった」「蝶々結びにしたら死んでしまった」「ドラエモンがなんとかしてくれる」ってさ、無能だとしかおもえん。例えば、「首についている手の後は逆手です。犯人は口を押さえようとした、と言ってます」とか、そこらへんでとどめておけば、陪審員だって、検事さんの証拠も危ういモノなんだな、とかおもうじゃないですか?

おまけに、犯人の手紙、ぬぐってもぬぐっても消えないあの手紙。「可愛い子犬を見つけてやっちゃった」「本村さんは出過ぎ。俺が勝った」「無期で7年後には地上にひょっこり芽を出す」とか、、世間的には犯人の少年に対して嫌悪感が広がっていて、あの弁護のやり方って、これいかに。

そして、この前、広島高裁で、差し戻し審の「光市母子殺人事件」の判決がでた。

被告について「自分の犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑回避に懸命になっているだけで、遺族への謝罪は表面的。反省謝罪の態度とは程遠く、反社会性は増進した」という高裁の・判断・は、マスコミによって捏造されたのかもしれない犯人に対する嫌悪感と弁護による劣悪なイメージと、対する、検事側証拠の危うさを指摘し推定無罪の原則に立とうとする理論派との双方の架け橋になるような判断だったと思う。

きっと、いろんなケースがあるのだろうから一概には言えないけど、つまり、裁くと言うことは、様々な証拠に基づいて事件が再構成、物語られ、弁護はそれに対立する争点を持った別の再構築をおこない、そうして、陪審員は、様々に感情をコントロールされながら、理性の方向を決め、そして判断を下さねばならない、ということなのかな、とおもう。
この判断!は、感情にも理性にも足をかけたものなんだとおもう。
だって、情状酌量ってやつ、更正の可能性とか教育刑って、根本にあるのは感情(倫理)でしょ?

本村さんも言っていたけど、真摯に悔いているのなら、無期で7年後には出られた、という判決だったかもしれないのに。