『自由は定義できるか』(仲正昌樹)

「自由」は定義できるか(木星叢書)良い本。十数年前に「自由ってなんだ?」と考え込んだことがある。読みながら子どもが小中学生だった頃のことをあれこれ思い出していたんだけど、なんと言っても「自由」のことを考えたのは、「子育て」のせいだったから。
ウチの子どもはゆとり教育世代で、あの頃は、ほんとに変な時代だった。といっても、その前の管理教育とかゆうときだって校内暴力とか酷かったんだし、まあ、いつだっていろいろあるものなんだろうけど、ともかく、学級崩壊があり、そして、子どもたちがどうも不穏で、サカキバラ事件が起きて、14歳だと聞いたとき、「そうなんだ・・やっぱり」と思ったっけ。(秋葉原事件の犯人も彼と同い年だなあ)。
で、わたしがこの本を読みながら何を思い出していたかというと、子どもが小学生の時のこと、話しをしていて、彼から「責任を負う」というような感覚がころんとぬけていて、びっくりしてしまったことがあったんだ。
あの当時は子どもの人権なんてニュースもよく流れていたし、小学校では子ども一人一人の個性が宝物のように尊重されていたようなイメージが残っている。
それで、その時、わたしは子どもに責任について説教した。「そりゃあ、なにをやってもいいさ。でもその結果は、自分一人が引き受けるんだよ。全部、背負うってことだよ。」とたぶん、もっといろいろ脅したとおもう。おもうに、曖昧な権利のメッセージは子どもに曖昧な自由の権利を与え、何か失敗したとしても、いろいろ、言い訳を丁寧に聞いてもらい、励まされ、ということに子どもたちは親しんでいたのかもしれず、けれど、(だからこそというべきか)、そこにセットで付随しているはずの「責任を取る」厳しさが抜け落ちる。
責任ということをいくら教わっても、失敗した子どもに対して、大人が言い訳を聞き、慰撫し、(結果、新たな可能性を夢見させる)のと、又は、おざなりの対応でほっておかれ、誰のせいにもできない、失敗をかみしめるのは自分なんだと、もしくは幼心に不条理を思い、泣くのとでは、責任という言葉の体感が違うだろう。
まあ、こゆう風に書き出してみると、可能性と責任、両方向とも、どっちもどっちだろ、ともおもうけど、肝心なのは、もしかしたらウチの子だけじゃなく、あの当時、子どもたちは、実感するような責任の取り方に、あまり触れることがなかったのじゃないかという気がしている。

わたしは、子どもに「自己決定権(=自由)とそれに伴う自己責任」というメッセージが正しく伝わって欲しいと思う。より良く生きるための長い間の知恵のひとつなんだから。だから、運悪く窮地に陥っている人に対して、自業自得(自己責任)と言うのは、開いた口がふさがらない。カント主義的な「精神の自由」が恋しい・・。