『なぜ「話」は通じないのか』(仲正昌樹)

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論ん・・まあ、「こーゆうふうなことに気をつけなさいよ」ってことが書いてある本。最初のほうは、論壇とかの話しなので、笑ってたんだけど、だんだん、ネット界隈のはなしになって、小石があたしにもボンボン当たるわけで・・イタッ、イタッ、って。

『自由は定義できるか』って本を読んで、わかったわかったって12日に書いたけど、つまり、何がわかったかってと、

仲正昌樹氏は、思想家なんだと。だから、(ポストモダン思想)のような理論を道具に貶めるような自説を展開する学者に怒るんだなと。ん・・上手く言えない。

だから、デリダの晩年には、苦渋の・思想・の変遷を見るけど、彼が怒っていた他の学者さんたちの場合は、違うだろと、お前さんの立ち位置は(思想は)どーなっているんだと、そーゆうことかなあ・・。
でもって、仲正氏を思想家だとおもって、こうゆう本を読むと、(特にネット界隈で)、理論をろくなことにしか使えないオマイラの腹の内は、くだらねー思いつきを見せびらかし、おまけに人を攻撃するたあ、なんたる浅ましいヤツ!ってことかなあ、とおもう。彼は、ミステリアスじゃなくて、首尾一貫してる。
で、この本読みながら、あたしはかーなり痛かったので、ちょっと言いたいんだけど、彼は、ネットに書く(=この本で言及されていることに限定)ってことのその裏の浅ましさを見抜いているんだけど、そう、あたしも自分で自分のこと浅ましいなあ、と思っているよ。でもさ、浅ましさだけじゃなくて他にも色々絡まってる。なんでもかんでも悪い方に考えすぎだよ。
例えば、思いつきを書いて喜んでる馬鹿(あたしのことだけどさ)、書いてしまう以上、つまり、公になるから、浅ましさがつきまとう。けど、ブログってほんとに公かな?グループって思ってもいいんじゃない?仲間内で、「ねえねえ、聞いてよ。どー思う?」ってことならば、浅ましくない。それで孤独が雲散霧消するなら安いもん。