『ポスト消費社会のゆくえ』『日常・共同体・アイロニー』『民主主義という錯覚』

ポスト消費社会のゆくえ (文春新書)日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界民主主義という錯覚

昔、中内功氏がNHKのインタビュー番組に出ていて、ダイエー失敗の原因を聞かれ、「官僚体質になってしまったことでしょうねえ。」と答えていた。成功したシステムが柔軟性を失い、社員の創造性が失われていってしまった、というような意味ではないかと思う。『ポスト消費社会のゆくえ』(辻井喬上野千鶴子)で辻井氏が語るセゾン崩壊の要因も、つまるところ、「硬直化」なんだなあ、と思う。
辻井氏はかなり早い段階で「自己を否定しろ」と社員に言っていたと書いてあるが、つまり、「自己否定」とは、『日常・共同体・アイロニー』(宮台真司仲正昌樹)でいうところの「脱構築」みたいなもんである。と、考えてみたい。
なぜなら、経営の脱構築に成功した企業が消費社会を支え牽引してきたのだから。と、みることも可能ではないかと。

いま、社員は、アイロニカルなパースペクティブを持っていなければならない。ここには、空しい自己承認しか転がらない。鬱は育まれないだろうか?何十万人にのぼるといわれる鬱。

しかし、今、辻井氏、上野氏は・ポスト・消費社会と言われる。
宮台氏はEUの行方と日本の経済をにらみ、若者の困惑を意識し、戦略的に発言しておられるのだろう、と思う。もちろん、仲正氏も。お二人は大衆を信用していない、と語る。「そうだろう」と北国の片隅で暮らす大衆であるあたしも思う。なぜ、信用出来ないかと、言えば、大衆は教えられたがっている、わからないことを教えられるのが好きだからである。(関係ないけど、カリスマってみんなコレやってない?)。

日本憲法アメリカ型ではない、と『民主主義という錯覚』(薬師院仁志)の著者は書いている。日本経済がアジアとより緊密で(すでにそうだけど)、政治的にも深くなるに従い、薬師院氏が分析している「ルソー的な平等、パブリック」を考えなければならないと思う。アメリカ型の「個人の幸福を追求する権利」では、他国を蹂躙してしまうだろう。
著者の社会契約論徹底(あたしの勝手な読解)は、ポスト消費社会を考えるために大変有効だと思う。薬師院氏は貴族政(アーレント的なイメージがあたしにはあるけど)について説明している。大衆であるあたしは賛成だ!(と、しつこくいじけてる場合じゃなくて)、エリート政治のようなものにしか、あのEUを見ていると、理念・利害の調整はでけないだろうなあ。

だから、子どもたちに愛国心を教えるんなら、(題名はヘンだけど)『民主主義という錯覚』という本を読ませればイイのになあ、と思う。

あたしは、、あたしは、どうも、「個人の幸福を追求する権利」てきな要素が強いんじゃないかなあ、という気がして・・。だって、私的領域だっけで生きてきたような人間なんだよ。でも、息子たちはたぶん、アジア規模のなかで生きて行かねばならないとおもう。